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『14歳の君へ どう考えどう生きるか』 池田晶子

『14歳からの哲学』を読みやすくエッセイ風にしたもの。

とても、とてもやさしい池田晶子さんの気持ちが伝わってくる。

勉強することや、幸せになることや、生きること死ぬことについて、真剣に丁寧に一緒に考えてくれている。

そして考えることの不思議と大切さを感じさせてくれる。

子どもたちに贈りたい本です。

あ、でも14歳の倍以上のわたしが読んでも、ドキドキしちゃう本です!

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鑑賞

鑑賞とは、作品との対話であろうと思う。

芸術作品を目にしたり耳にしたりしたとき、それを吸収し、どんな感想を抱くかは各人の自由だ。

ただ、「鑑賞」というとき、結果としての作品をそのまま吸収するだけでは少し物足りない気がする。

優れた芸術作品というのは偶然の産物などではなく、そこには作者の緻密な計算や推敲があるはずだ。

推敲の足跡には作者のこだわりがあり、作品の根幹のようなものがあるとわたしは思っている。

そういう足跡と、自分の経験やら哲学やらが対話することで、作品をより深く楽しむことができるのではないか。

国語教師であるわたしたちの役割といえば、そういった作品との対話のしかたを教えることであり、また、たとえば文章を書く際に、作品の向こうの読者を意識しながら書き上げていく力をつけていくことであろう。

こういうことを意識し始めてからというもの、現代文がおもしろい。

プライベートな読書で毎度毎度こんな読み方をしていたら疲れちゃうけどね。

でも癖になりつつあるから、普段の本の読みも昔に比べたらだいぶ変わってきていると思う。

これは自分ではうれしい変化だ。

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師匠

昨日は18時過ぎに終わった会議のあと、「ところでさ…」というK氏と国語のことや本のことについて語り合い、気づけば19時半。

敬愛するK氏とのお話は大変楽しく、この時間がずっと続けばいいのにとさえ思った。

K氏はとても頭のいい人なので、K氏と話すときわたしはちょっと背伸びをしなければいけない。

でも、背伸びをしているうちに次第にそれが自分の身の丈になり、また次の背伸びにつながっていく。

そういうことが実感できるから楽しいし、うれしいのだろう。

それともう一つ。

K氏がわたしの中に話す価値を見出してくれたことがうれしいではないですか!!

いや、同僚だから話をするのはあたり前なんだけど。

K氏もそんなことは考えずに、気軽に話しかけてくれているだけだろうけれど。

一時間半も話ができるってことは、それだけ話す内容があるってことで、つまりそれはK氏の話をわたしが理解し、それに応えられる、とK氏が認めてくれているってことでしょう。

年長者に認められるというのは、いくつになってもうれしいものです(いちばん大事なのは自分で自分を認めるってことだけどね)。

とりわけK氏に認められるということは、K氏ファンクラブ会員番号10番のわたしとしてはもう舞い上がってしまうようなことなのです。

今度、「ファン」から「弟子」に昇格させてほしいとお願いしてみよう。

そのためにはまず、勉強だな。

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『モダンタイムス』 伊坂幸太郎

この小説を読んで、いちばんドキッとするのはわたしたちの世代ではないかなと思った。

今「検索」は生活に定着し、それなしの生活はとても困難なように思える。

しかし、わたしたちは「検索」のなかった時代を知っている。

だから、人々が口にするネット社会の危険性であるとか、現代社会が直面している危機だとか、その深刻さもある程度は理解できるのだ。

でも、もう身についてしまっている。

わたしたちは、その間で揺れる。

そして考える。

システムについて。

自覚しないこと、あるいはできないことの恐さについて。

勇気について。

これまでにもネットをテーマにした文章はいくつか読んできたけれど、それらは外側からの文章であることが多い。

「やばいんだよ」とわかっている人たちの文章だということ。

この小説は、それがフツーである社会のフツーである人の立場から、つまり内側から「なんかやばいことが起きているんじゃねえの」みたいな感じで描かれている。

小説というのはそういうものかもしれないけど、それがあちらこちらに散りばめられていて、あたり前のことのように描かれているからこそ、今を顧みざるを得なくなるというのがおもしろい。

伊坂さんがそういう視点になれるのがすごいです。

(以下、内容に触れるかも)

ハッピーエンドかと聞かれたら、そうであるともないとも言える。

ストレートに表現するなら、「悔しい」だ。

『魔王』も『ゴールデンスランバー』も、そして『モダンタイムス』も、圧倒的な力を前に、考えて、考えて、考えて、行動して、あがいて、得られるものはほんのわずかなものでしかない。

極端な言い方をすれば、ある絶望が描かれている。

わたしたちに世界は変えられない。

それでもあきらめなければなんとかなるかもしれないじゃないか、という流れの物語を読みなれているわたしの感想は、だから「悔しい」。

現実と照らし合わせたとき、ここに描かれていることのほうが真実であるような気がするから。

何もせずに逃げるのではなく、見て見ぬふりをするのではなく、それがまさしく「勇気」を伴うものであることが、余計に悔しい。

この気持ちはどこに持っていけばいいのでしょうか、伊坂さん!

「ダ・ヴィンチ」12月号のインタビューで、作風の変化について伊坂さん自身が述べておられます。

今までのように、最後の最後になって「やられた!」と思わされるような小説ではなかったけれど、「この気持ちはどこに持っていけばいいのでしょうか」と思っている時点で、やっぱり伊坂マジックにかかっているのかもしれません。

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イメージからの脱出

ことばに関するある評論文について話したら、部長が「絵も同じようなもんだ」と、こんな話をしてくれた。

「ぐるっとまるを描いて、その中に点を二つ描いて、線を一本びゅっと引くと顔に見えるだろう。

そんなもの、実際の顔とはまったく違うものなのに、俺らは顔と認識する。

小さいころから、こう描いたら顔だ、と教えられるからだ。

絵を描くっていうのは、まずそこから脱することから始めなきゃならないんだ。」

イメージから脱し、絶対的にそのものを見るということは容易ではない。

でも、それができたとき、全く違う世界が広がるんだろう、きっと。

そしてまた、別のイメージで世界を構築する作業が始まる。

芸術が生まれる。

やっぱりすごいなあ、芸術作品も、それを創造する人も。

秋。

ふかしたさつまいもを食べながら、ふとそんなことを考えてみる。

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『エバーグリーン』 豊島ミホ

わたしはなりたいものになった口だと思うし、誰かを追いかけていきたいと思ったこともないから、彼らとは置かれた状況が違う。

なのに本を閉じた後、余韻の中で涙をこぼしてしまった。

それはたぶん、一つはあの頃を懐かしく愛おしく思う気持ちがあふれてきたから。

そしてもう一つ。

そのあまりの眩しさに目がくらんでしまったから。

眩しいと思ってしまう今の自分は、あの頃とはちがうものになったんだと思った。

後悔とかそういうのではなく、時は移っていくのだなという感慨みたいなもの。

失くすとか、捨てるとか、あきらめるとか、子どもから大人になるとき、そんなことばで語られがちだけど、ちがうよなとこの小説を読んで思う。

彼らが見つけた答えみたいに、もっと大きくて豊かなものなんじゃないだろうか。

大人になるって、現実の中に身をおくって、そう捨てたものでもないな。

それにしても、風景の描写を読んでいるだけで鼻の奥がツンとなるのですよ、豊島作品は。

「あなたはわたしですかっ!」と叫びたくなります。

そう思っている人が全国に何人もいるのでしょうね。

すごいなあ。

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